柴田礼子のオルフ留学日記

       7カ国の人々


私が入ったオルフ研究所の最初のクラスは、B-Studiumという2年のクラスで、私達は15人定員の所、13人しかいなくて、しかも7カ国から集まってきていた。内訳は、日本、台湾、ドイツ、オーストリア、スペイン、フランス、ブルガリアで、その内男子は3人であった。

このクラスは、研究所ではFortbildunng(フォルトビルドゥング)と呼ばれるクラスで、ここは教育現場経験者が、一時休職をして学ぶクラスとされている。現在では、この2年クラスは、通常の大学制度の中だと、むずかしいポジションにあり、あと1年か2年のみ存続するクラスと言われている。

もともとオルフ研究所は、オーストリア国立芸術音楽大学、モーツァルテウムの11科であったのだが、昨年ザルツブルグ総合大学と合併をし、ザルツブルグ大学芸術学部モーツァルテウムオルフ研究所となったせいで、様々な規制を受ける事になったのである。

当時の私達のクラスは、現役の小学校の先生、幼稚園の先生、ダンスの先生、大学の先生と様々な教育現場から来ていた。この中で、音楽が専攻だったのは、私とブルガリアの打楽器奏者であったマリンだけであった。

年令も様々で、私は下から2番目か3番目であった。一番年長者は、ドイツ人で家族で来ていたペーターで30代後半、彼はもうその頃から禿げていた。(それが何だって・・・?ヨーロッパ人って結構早く禿げる人が多いのである。)

いろいろな国から来ているという事は、いろいろな習慣の違いから、考え方の違いから、いろいろな事件が起きる訳で、どちらにしたって、ドイツ語はできない、自己表現はできない?私は、毎日泣きべそをかいたりしていて、何でこんな所に来ちゃったんだろうと思ったものだった。

前にも書いた事だけど、もともと大陸続きでいろいろな人種がいる事に慣れている人達は、ある意味で差別も偏見もなく、従ってあまり、言葉がわからなくて大変だとか、かわいそうなんて事は思わないので、いきなりストレートに来る訳である。

「レイコ、何でやらないの?」「何で黙っているの?」と・・・。同じ外国人でも、フランス人のニコルや、スペイン人のカルメンは、下手なドイツ語でも平気でしゃべっているし、むずかしい事は、他のドイツ語圏の人間が反対に、フランス語やスペイン語を話せるので、母国語で説明を聞く事ができるという利点があった。

私と台湾人のチン・ヤンは、ぼそぼそとしたドイツ語で、みんなの後をついていくという感じであった。そのチン・ヤンとマリンはいつも一緒にいて、おとぼけを決め込んだり、持ち前の器用さで、いろいろな課題をこなしていくので、結局1番のろまな私が、いつも置いてきぼりにされたり、少々被害妄想気味になったり、勉強をしてもしても追いつかない事に焦ったりしていたのだった。

そんな私に親切にしてくれたのは、オーストリア人のマリアで、インスブルック出身の彼女は、「レイコ、大丈夫だよ」とか、「そんな事を気にしなくていいんだよ」といつも優しく、私の背中を撫でてくれた。私のスキンシップ好きは、もしかしたら、そこから始まっていたのかもしれない・・・。

そんな事を通して、私は同じドイツ語圏でも、オーストリア人とドイツ人の国民性の違いを感じていったのである。そんなある日、そのチン・ヤンとマリンと私にある事件が起こったのだった・・・。この続きはまた次回に・・・。   

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