柴田礼子のオルフ留学日記
A 型の私がB 型になった時


 外国に行って、言葉がしゃべれないという事は大変なことである。 ただ、旅行で出かけたのであれば、
身振り手振りで話し、それを楽しむ事ができる訳だが、勉強をするとなるとそういうレベルではなくなる
訳で、運良く、オルフ研究所の入試に受かったものの、大変な日々が待ち受けていた・・・。
私、柴田が留学していたザルツブルグは、ミュンヘンに近い、モーツアルトが生まれた音楽あふれるオーストリアの田舎町である。 どこにでも自転車で行ける位の広さで、ヨーロッパらしく、古い建造物が多い、美しい町である。 一番、町の中でも賑わいを見せるゲトライデ通りにあるマクドナルドさえも、法律で規制されていて派手な装飾はできず、他のお店の看板のように、銅か真鍮かなんかでできたかわくいい看板の中にマックのMが入っているような感じで、とても微笑ましい感じである。 
 そんな田舎町にいるという事は、刺激になるような事は少なく、そういう意味では、勉強に専念できて良かったのかもしれない。  だが、もともと十分にドイツ語の勉強をしていった訳ではない上に、ザルツブルグで話すドイツ語は、学校で習った標準ドイツ語ではなく、訛りのあるドイツ語で、もう何が何だかわからない状態で、本当に困った。 アパートを決める時も、契約書云々の事がわからなくて、困り果てた不動産屋さんがウィーンの日本大使館に電話をして、通訳を頼んでしまったくらい・・・。
 研究所の先生や友達は、基本的に私達外国人に直接話をする時は、比較的ゆっくり話してくれるが、通常の授業の時は、普通のスピードで話すし、子供にいたっては、外人だろうが何だろうが、お構いなしに方言で話すのである。 それが彼らの言葉なのだから、当たり前なのだが、私達にとっては大変なことである。
 何といっても、大陸続きの国だから、いろいろな国の人がいることに慣れている上に、わからなければわからないという事をきちんと言葉で表すというお国柄である。 そういう事に小さい頃から慣れている彼らは、わからないといえば、何度でもきちんとゆっくり話してくれるし、日本人だからとか、アジア人だからとかいう偏見を持つこともない。 最初の頃、行った教育実習の際も、自分の言うべき文章はしっかり覚えて言ったのだけれど、子供達の言っていることがまるでわからなくて、泣き出しそうになったことを懐かしく思い出した。 級友の中には、先生の言っている質問を理解するのに精一杯の私に対して、「礼子、さっきから全然、意見を言っていないけれど・・・。」という人もいたりして・・・。 ザルツブルグの町では、どう見ても外国人の私に、道を聞く人もいたりして、びっくりすることが多くあった。 
 彼らは一様に、言葉が話せないとか、肌の色が違うとか、顔つきが違うとか、そういう事に全くといって良いほど関係なく、一人の人間として接してくる訳で、その事は、私自身が変わっていくきっかけにもなっていった。 ここで生きていく為には、自分の意見をきちんと言わないといけないのだ、血液型がA型の私は、B型にならないといけないのだと(欧米人はB型が多い!)と妙な感慨を持って20代前半を過ごしたのであった。      
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